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芸能ネタ

連続TV小説「虎に翼」の意味とモデル人物は三淵嘉子さん

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朝ドラの「虎に翼」がだんだんおもしろくなってきましたね。

毎朝楽しみになってきました。

この記事では、虎に翼の意味とこのドラマの主人公のモデルのなった裁判官の三淵美さんについてお知らせします。

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モンキーD.ルフィの田中真弓さんが出演

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「虎に翼」ってどんな意味?

「鬼に金棒」と同じ意味を持つのだとか。つまり「そのままでも強い存在のものに、更に強さが加わる」こういったものを意味します。
このドラマでは「虎」というそのままでも強い生き物が、「翼」を手に入れ自由に飛びまわるというイメージですね。まさに「獣魔」強すぎますよね。

主人公は寅子自由奔放でなんでも忌憚なく、意見が言える、前向きな性格だったんですよね。

当時の女性としては、かなり異質で、まるで男みたいだったのでしょう。なので生きる力は非常に強い、

そんな彼女はやがて法律に目覚め女性の権利向上のため、大学で勉強し、法律家になるわけです。

まさに寅子が翼を手に入れる人生物語なのです。

当時の女性はまだ、女学校在学中に婚約するのが夢と寅子の同級生が言うように女は知恵をつきすぎてもよくなくむしろ結婚して家庭に入り夫や子供の世話をすることが一般的だった社会規範に反するので、相当苦労しますよね。

父の書生に弁当を届ける時、講義が耳に入った、文言には結婚した女は無能力者に強く反応します。

この時が寅子の法曹界へ入る、きっかけになったのでしょうね。

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モデル人物は誰?

引用元:明治大学

この当時明治大学の法学部にはいる三淵さんです。

プロフィール
  • 生い立ちと教育:
  • 1914年シンガポールで生れ。氏の名前は、シンガポールの漢字表記「新嘉坡」から「嘉子」と名付けられる。
  • 東京女子高等師範学校附属高等女学校を卒業後、進歩的な父の影響を受け法律を学ぶことを決意し、明治大学専門部女子部法科に入学。
  • 1938年に明治大学法学部に入学し、1940年に日本初の女性弁護士として弁護士登録。
  • 判事としてのキャリア:
  • 1949年に判事補となり、東京地裁で活躍。
  • 1952年に名古屋地方裁判所で初の女性判事となる。
  • 1963年には広島と長崎の被爆者が原爆の責任を訴えた「原爆裁判」を担当し、日本の裁判所で初めて「原爆投下は国際法違反」と明言。
  • 家庭裁判所長として:
  • 1972年に新潟家庭裁判所長に任命され、女性として初の家庭裁判所長となりました。
  • 少年部で5000人超の少年少女の審判を担当しました。

   1984年に骨肉腫のため69歳で亡くなりました。

一体そんな男尊女卑の社会で出る釘は打たれる社会で三淵さんはどんな庇護のもと初志を貫徹しることができたのでしょうか?

三淵嘉子さんは、日本初の女性弁護士で、初の女性判事および家庭裁判所長でした。彼女は日本の法曹界において、女性の地位向上に大きく貢献した人物であり、その功績は称賛されています。

ご家族はどんな人たち?

三淵嘉子さんの家族構成。

父:武藤(宮武)貞雄 婿養子として家族に加わりました。
母:武藤ノブ 三淵嘉子さんの母親です。
兄弟:
長女:武藤嘉子(後に三淵嘉子さん)
長男:武藤一郎
次男:武藤輝彦
三男:武藤晟造
四男:武藤泰夫


三淵嘉子さんの父武藤貞雄さんは、実業家でした。東京帝国大学卒後、氏は台湾銀行に勤務し、その後ニューヨーク支店長としても活躍しました。また、氏は進歩的な考えを持ち、嘉子さんに「医者や弁護士などを目指すのはどうか」と提案した人物でもあります。氏は女性が職業を持ち自立することを考えており、嘉子さんの勇気ある選択を支持していました。

、三淵嘉子さんのお母さま武藤ノブさんは当初、嘉子さんが大学で法律を学ぶことに反対していました。嘉子さんは進歩的な考えを持つ父の影響を受け、法律を学ぶことを決意したのです。当時、女性に唯一法学の門戸を開いていた明治大学専門部女子部法科に入学し、その後明治大学法学部に編入し、日本で初めての女性弁護士の一人となりまでずっと支え続けます。

1度目の結婚:

1941年11月5日、和田芳夫(明大卒)と結婚
長男:和田芳武(後に三淵芳武)
夫は1946年長崎の陸軍病院で肋膜炎により亡くなります。

2度目の結婚(再婚):

1956年8月、裁判官の三淵乾太郎(初代最高裁長官だった三淵忠彦の子)と再婚
乾太郎の連れ子:
長女:那珂
次女:奈津
三女:麻都
長男:力

三淵さんの法曹界での活躍

昭和の初期ってまだまだ男尊女卑ですよね。

三淵さんは相当大変だったでしょうね。それにしても両親の支えは大きかったですね、嘉子さん思いは、ご両親なしに実現したかったでしょう。

三淵嘉子さんは、日本初の女性弁護士の一人であり、その生涯は波乱万丈でした。戦前、戦中、戦後の法曹界は社会的な変動と混乱の時期でしたが、彼女の活動はその中で重要な役割を果たします。

  • 戦前(昭和13年以前):
    • 三淵嘉子さんは、昭和13年に「高等文官試験司法科」に合格し、女性初の法律家となります。
    • 嘉子さんおよび同級の中田正子さん、そして1学年下の久米愛さんの3人の女性が、高等文官試験司法科に合格したと発表されます。(合格者総数242名)
    • 当時、まだ女性は裁判官や検察官にはなれませんでしたが、氏は弁護士として活動しました。
  • 戦中(昭和15年から昭和20年代):
    • 戦争の影響で、彼女の弁護士としての活動は事実上1年ほどでした。
    • 夫が戦地で発病し、再会できないまま1946年に亡くなり、弟も戦死し、両親も相次いで亡くなり絶望の淵に立たされます。
    • しかし嘉子さんは子供と弟を養うために孤軍奮闘します。
  • 戦後(昭和20年代以降):
    • 新憲法の公布により、男女平等が宣言され新時代が始まります。
    • 三淵さんは司法省や最高裁の職員として、法律の整備にまい進します。
    • 最高裁家庭局の局付として、家庭裁判所の創設にも力を尽くしました。
    • 嘉子さんは生涯で5000人を超える少年や少女の審判を行い、立ち直りを支援しました。

三淵嘉子さんは、女性の権利擁護や法律で弱い立場の人々を守るために長期にわたり活動し、司法の女性活躍の先駆けとなりました。

さらに詳しくは、明治大学のサイトへ

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