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芸能ネタ

【画像】フジコ・ヘミング氏 92歳 全聴喪失、苦難乗り越えた至高のピアニスト天国へ

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ピアノの巨匠が亡くなれました。

とても驚きなのと悲しいですね。人は不死身ではないことはわかっていますが在るべき人がいなくなるのはやはり寂しいですね。

今日は、氏の訃報を聞いてすぐさまきじにまとめてみました。

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フジコ・ヘミング氏プロフィール

フジコ・ヘミング(本名:ゲオルギー=ヘミング・イングリット・フジコ)は、日本とヨーロッパ・アメリカ合衆国で活躍したピアニストでした。

  • 彼女は1932年12月5日にドイツのベルリンで生まれ、
  • 父親はスウェーデン人画家・建築家のヨスタ・ゲオルギー・ヘミング、
  • 母親は日本人ピアニストの大月投網子でした。

彼女は5歳で日本に帰国し、母と弟と共に東京の渋谷で育ちました。

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フジコさんのキャリアの始まり

  • フジコ・ヘミングは5歳から母の手ほどきでピアノを始め9歳でnhkに出演し天才少女と注目を浴びます。

10歳から父の友人であるロシア生まれのドイツ系ピアニスト、レオニード・クロイツァーに師事したそうです。

  • 16歳の時風邪をこじらせ、右耳を聴覚を失います。
  • そんな難関を乗り越え東京芸術大学へ入学
  • 彼女は東京藝術大学を卒業後、28歳でなんとか夢だったベルリン芸術大学への留学を叶えました。
  • その後、音楽家として経験を積むためウイーンに移り住みます。
  • 貧困生活での音楽活動を行いましたが、やっとことでチャンスをつかみリサイタルをする大きなチャンスを得ますが当日また風邪をこじらせて完全に聴力を失い、一時的に演奏家としてのキャリアを中断することになりました。

当時の落胆ぶりは自身を落ち武者のようだったと語っていました。

  • その後、彼女はストックホルムに移住し、耳の治療の傍ら、音楽学校の教師の資格を得て、以後はピアノ教師をしながら、欧州各地でコンサート活動を続けました。
  • 1995年に母が亡くなった後、日本に帰国し、母校の東京藝術大学などでコンサート活動を行いました。

徐々に脚光を浴びだす

彼女の演奏は多くの人々に感動を与え、特に1999年に発売されたデビューCD『奇蹟のカンパネラ』は、日本のクラシック界では異例の大ヒットとなりました。その後も彼女は国内外で活躍し、多くの賞を受賞しました。

特に彼女のカンパネラは魅了されました。

丁度僕が知ったのは、盲目のピアニスト辻井伸行さんの演奏を追っているときでした。この人も聴力に障害を抱えながら、演奏活動を続けてきた人という事で、演奏を聴くのが敷居が低かったです。

多くの若い演奏家のカンパネラはキンキン耳に刺さる音色なのですがフミコさんのは一音一音が丁寧で重厚そんな演奏にとても惹かれました。

多くのファンに惜しまれこの世を去る。2024年4月21日逝去

彼女は2024年4月21日に膵臓がんのために亡くなりました。彼女の音楽とその人生は、多くの人々に影響を与え、今でも多くの人々に愛されています。

僕ががフジコ氏を知ったのは、あの盲目ピアニストの辻井伸行さんの演奏を追いかけている時でした。

彼の18番の曲リストのラカンパネラに魅了されたからでした。

そしてそれからほどなく、フジコヘミングさん知るようになります。彼女のやはり聴覚障害を乗り越え演奏う活動を続けている天才ピアニストだということを、、

フジコさんのラ・カンパネラは、ただの超絶技巧ではなく、彼女の苦難な音楽人生を歌うようなピアノでした。

フジコさんのラ・カンパネラを初めて聴いたとき、なんか音から映像が見えるように感じました。

低音部から地の底から湧き上がるような力強さと、有名なピアニストの演奏にはない異質な独創性が感じられました。

辻井さんの演奏は涙腺をゆるませるほど感動しましたが、フジコさんの演奏はまるで年輪を重ねた日本の演歌のような人生の情緒が伝わってきて、鳥肌が立つほどでした。

長年の人生をかけて一心に作り上げた演奏というのは、本当に心から尊敬します。

たくさんの市井の人々がお悔やみの言葉を残されています。僕も心に響く素敵な演奏、ありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。

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