良かったですね。とりあえずまた一つの難関がクリアになり、父直言が猪爪家戻ってきます。
そして逮捕前に妻はると映画に行くはずだったチケットを渡し映画に行こうと誘います。
それまでじっと我慢してきたはるは感極まりギャン泣きします。
とてもかわいいはるさんですね。石田さんにぴったりの配役でした。これでまた多くの虎に翼ファンを獲得されたことでしょう。
ところでドラマ中で父直言は容疑者の一人として逮捕された共和事件は昭和9年に起きた、帝人事件が元だといいます。
昭和9年、日本が軍国主義、大東亜共栄圏、そして太平洋戦争へ向かう中で、より強いリーダーを求める動きが加速する中、政権争いの混乱の中で事件が起きました。
さて、
その事件がどんな事件だったのかダイジェストしましたので紹介します。
共和事件のモデル帝人事件とは
「帝人事件」は、1934年(昭和9年)に発生した疑獄事件です。
この事件は、帝国人造絹絲株式会社(現在の帝人)の株式売買を巡り、台湾銀行の幹部や帝人の重役、大蔵省の幹部など全16人が起訴されました。
事件の背景には、帝人の株式22万株が台湾銀行の担保になったことがあります。これは、帝人が鈴木商店の系列で、1927年(昭和2年)の恐慌で鈴木商店が倒産したためです。その後、帝人の業績は良好で株価が上がる中、この株をめぐる暗躍が起こりました。
帝人事件の結果
事件は、政府の批判が高まり、同年7月3日に斎藤実内閣は総辞職を余儀なくされます。しかし、1937年(昭和12年)には起訴された全員が第一審で無罪となり、現在では倒閣を目的にしたでっち上げの可能性が極めて高いものと見なされています。
この事件は、当時の政治・経済状況を反映しており、その後の日本の歴史にも影響を与えました。また、この事件は多くの文化作品でも取り上げられ、その影響は現在にも及んでいます。
帝人事件の背景
「帝人事件」は、1934年(昭和9年)に発生した疑獄事件です。この事件は、帝国人造絹絲株式会社(現在の帝人)の株式売買を巡り、台湾銀行の幹部や帝人の重役、大蔵省の幹部など全16人が起訴されました。
事件の背景には、帝人の株式22万株が台湾銀行の担保になったことがあります。これは、帝人が鈴木商店の系列であったが、1927年(昭和2年)の恐慌で鈴木商店が倒産したためです。
個の鈴木商店は、当時の国家予算の2倍以上の15.4億を稼ぎ出す一大商社だったのですが、昭和2年に起きた昭和金融恐慌で倒産してしまいます。それほどの経済危機を日本は迎えていたのでした。
その後、帝人の業績が良好で株価が上がったため、この株をめぐる暗躍が起こります。
結果総辞職となる
事件は、政府の批判が高まり、同年7月3日に斎藤実内閣は総辞職を余儀なくされました。しかし、1937年(昭和12年)には起訴された全員が第一審で無罪となり、現在では倒閣を目的にしたでっち上げの可能性が極めて高いものと見なされています。
帝人事件犯罪容疑内容
「帝人事件」における犯罪容疑は、主に贈収賄と背任に関連しています。
贈収賄:
この事件では、台湾銀行が保有する帝人の株式が不正に取引され、その売却益が政財界にばらまかれたとされています3。具体的には、帝人の株式を不適切に取得し、それを高値で売却した利益を政治家や官僚に贈ったという疑いがありました。
背任:
企業の経営者や役員が自己の利益のために会社の利益を損なう行為を背任といいます。この事件では、帝人の経営者や台湾銀行の幹部が自己の利益のために会社の利益を損なったという疑いがありました。
判決文は桂場等一郎裁判官(松山ケンイチ)が書いた
「検察側が提示する証拠は、自白を含め、どれも信憑性に乏しく、本件において、検察側が主張するままに事件の背景を組み立てんとしたことは『あたかも水中に月影をすくい上げようするかの如し』。これ、すなわち、検察側の主張は証拠不十分によるものではなく、犯罪の事実そのものが存在しないと認めるものである。と判決を言い渡します。
これは、証拠が不十分であったこと、または証拠が捏造されていた可能性があることを示し最終的には全員が無罪となりました。
現在では、この事件は政治的な陰謀であった可能性が高いと考えられています。
余談:
ドラマ中では、この判決文を書いたのが桂場等一郎(松山ケンイチ)だと見抜かれます。
そして、この桂場等一郎(松山ケンイチ)のモデルは、帝人事件の裁判官だった石田和外(いしだかずと)裁判官だったのです。
事件は倒閣目的の陰謀説
帝人事件における倒閣を目的とした陰謀説については、様々な見解がありますが、一部の説では、当時の枢密院副議長であった平沼騏一郎が関与していたとされています。
平沼騏一郎は、五・一五事件で暗殺された犬養毅の後継内閣総理大臣の地位を狙っていましたが、元老・西園寺公望からその志向をファシズム的であるとして嫌われ、推薦候補にすら上らず、また枢密院議長昇格の要望も西園寺の反対で副議長のまま置かれていたとされています。
このため、西園寺とこれを支持する立憲政友会主流派を深く恨んで、同党内部の不満分子を抱き込みながら捜査を進めていったという説があります。
まとめ
先にも触れましたがこの事件によって政府批判を受けた斎藤内閣は総辞職しました。
五・一五事件で殺害された犬養毅首相の後を引き継いだ斎藤実は「英語が堪能で、国際派の海軍軍人であり、粘り強い性格や強靭な体力を持つとともに慎重さも兼ね備えている」と評価されていました。
世の中は、五・一五事件や満州事変などで揺れ動く日本をどうにかまとめることが期待されていての登壇です。
しかし、帝人事件の2年後、昭和11年(1936)に起きた二・二六事件で暗殺されてしまいます。
ドラマは、これからどんどん軍国主義色を高めていく世の中になります。令和の時代、どんな脚本で寅子やその周りの人が演じるのか、とても楽しみですね。
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