前の記事では、父直言が無罪になったことで再度はるとの絆を確かめあったエピソードでした。
そんな仲睦まじい夫婦を危うくした共和事件についてダイジェストしました。
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今大人気のドラマ「虎に翼」父、なんとか、第25話で無罪となりドラマはやっと、通常の朝ドラらしくなってきましたね。
家族そろって朝食をとるシーンなど見るとほっとしてしまいます。
しかし、猪爪家を取り巻く世の中は暗雲立ち込める混沌の時代と突入していきます。
第一次世界大戦中は好景気で多くの企業が繁栄していました。
しかし、その戦争が終わると欧州の企業も生産を再開し、一気に生糸などの価格が下落しました。
この時大きく投資をしていた鈴木商店という商社が大打撃を受けます。
その後に起きる数々の恐慌で日本経済は翻弄されます。
そこへ古今東西、自国経済が窮地に陥ると、他国を攻め落として補填する古典的な考えが次第に浸透していき、国内で他国への進出や戦争を必然視する風潮が広がっていくのです。
そんな寅子の昭和を、時系列で事件や出来事を追っていきたいと思います。
1920年戦後恐慌(寅子6歳)
第一次世界大戦(1914年 – 1918年)中は好景気で多くの企業が繁栄していました。しかし戦争が終わると欧州の企業も生産を再開し、一気に生糸などの価格が下落しました。この時期は1920年から始まり、戦後恐慌と呼ばれています。
この時大きく投資をしていた鈴木商店という商社が大打撃を受けます。
1923年震災恐慌(寅子9歳)
関東大震災が1923年に起きます。これにより新たな恐慌、震災恐慌が発生します。
多くの企業が震災被害により発行手形が不渡を起こします。
鈴木商店の手形を多く抱えていた植民地の要の銀行、台湾銀行が倒産の危機に陥ります。
これにより日本政府に泣きつき若槻内閣はこれを救おうとしますが、内閣は説得できず総辞職になってしまいます。
次の田中内閣でやっと日本銀行が銀行に貸し付ける形でなんとか台湾銀行の倒産の危機を脱しましたが。
こんな混沌とした時期に、この余波で多くの企業が倒産、休業に追い込まれます。
1927年 昭和金融恐慌(寅子13歳)
帝国議会終盤の1927年3月14日、衆議院予算委員会で大蔵大臣・片岡直温は野党の執拗な追及に対し、次官から差し入れられた書付に基づき「現に今日正午頃に於て渡辺銀行が到頭破綻を致しました」と発言。
実際には東京渡辺銀行は金策にすでに成功していたが、この発言で預金者が殺到し、休業に追い込まれてしまう。これにより昭和金融恐慌が勃発しました。
主な事件と政治動静 (寅子17-22歳)
1931年9月18日満州事変勃発
1932年5月15日 犬養毅首相暗殺(二・二六事件)
1933年3.29 国際連盟脱退宣言(満州国建国を否認される)
1936年 2月26日斎藤実元首相暗殺(五・―五事件)
1934年帝人事件(寅子20歳)
帝人事件は、1934年(昭和9年)に起こった疑獄事件です。鈴木商店の大番頭が当時の鳩山一郎率いる、番町会のメンバーに帝人の株が上昇しているいい機会とし、台湾銀行が保有している鈴木商店が所有していた帝人の㈱22万株を買い戻す計画を立てます。
この贈収賄事件が帝人事件になります。
この時の総理が斎藤実内閣になります。この事件で総勢16名の容疑者が検挙され、ますが結局証拠不十分で全員無罪という判決になります。
昭和9年に摘発された帝人事件は多くの政財界人を巻き込んだでっち上げの疑獄事件です。この時に逮捕された三土忠三鉄道大臣の証言からでっち上げであることが判明し全員無罪になりました。
しかしこの事件は世間に政治家や経済人は汚いものとの印象を与え、昭和11年2月26日の若手将校の決起による二・二六事件(斎藤実元首相惨殺)を引き起こし、日本が戦争への道を突き進んでいくきっかけになりました。
まとめ 父:直言こと武藤貞夫氏の生涯
父直言氏のモデルとなった本当のお父さんは、こんな人でした。
父・武藤貞雄(1886-1947) 61‐ 実業家。香川県丸亀市出身。代々丸亀藩の御側医を務めた宮武家の二男として生まれています。
実は、すごいエリートなのです。
東京帝国大学法科大学政治科卒業後、
- 1913年より台湾銀行シンガポール支店勤務し
- 同行ニューヨーク支店長、
- 同東京支店支配人を務めています。
その後、台湾銀行の融資により設立された南洋鉱業公司に1925年に転職している積極的な方でした。
ドラマでは、共和事件(帝人事件)の容疑者として逮捕されてしまいますが、この事件1934年に発生した疑獄事件です。
しかし、実際のお父様は1925年に南洋興行公司の理事兼総支配人の職についています。
なので帝人事件にはかかわっていないと思われます。
その後、石原産業海運顧問を務め、自身でも昭和興業合資会社を興し代表となり、その後北海鉱業、日本防災工業、昭和金属、昭和化工の社長などを務めています。
昭和22年(1947年)。妻のノブが脳溢血で倒れ亡くなりました。同年。貞雄氏も肝硬変で亡くなりました。
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